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「社会的弱者が家庭内弱者とは限らない」

お知らせ

本日「家族責任論」を考えるフォーラムに参加して来ました。

基調講演はSibkoto共同運営者の白井俊行さん。知的障害者の兄を持ち弟という立場で障害児とずっと関わって来た方です。皆様には「きょうだい児」という言葉は耳慣れないかもしれませんが、障害児を持つ親はどうしても障害児のお世話に手がかかり、健康に生まれた他のきょうだいは親の手伝い、障害児の世話を助けいつの間にか自分の事を後回しになってしまったり、親の愛情が思うように受けられなかったり(全ての家族がそうとは限らないと思いますが)自分の環境が当たり前になってしまい自分を押し殺していることにも気がつかず、大人になってから社会にうまく適合できなくなり初めてきょうだい児の心の病に気がつきもがき苦しんでいるという問題があります。そんなご自分の気持ちを赤裸々にお話をしてくださいました。

自分が3人目の親になっていたこと。「家族は自分では決められない」同じ家族の中でも「夫婦」「親子」「兄弟」と立場が違う人間が共同体として暮らしていること。

「家族という無意識の支配」に縛られてしまい身動きが取れないことにも気づかずにがんじがらめになってしまっていたこと。

「家族」は自分では決められないのに「扶養義務」を背負ってしまう矛盾。

 

「社会的弱者が家庭内弱者とは限らない」

これは障害児だけではなく病気でも同じですね、なんとなく病人がいると家の中の空気を支配されているというか・・・

そんな時私は「喉に刺さった魚の骨」と表現するのですがなんとなくだけどスッキリしない状況明らかに太い骨であればすぐに病院に行って取り除いていただくのですが、小さい骨だとそのうち取れるだろうとほっておく事がありますがなんとなくスッキリしない状態ってありますね。いつも心の隅に引っかかってしまう。

どんなに頑張っても頑張っても「家族だから」と言って自分を納得させていつの間にか疲れ果てて、疲れている事にも気がつかず「家族なんだから」「◯◯だから」・・・

そんな言葉しか返ってこなくてグッと自分の言葉を飲み込んで「家族だから」「◯◯だから」と自分を納得させている毎日。

「助け合う」=「もたれ掛かる」

「助け合う」という選択は「助けなくても大丈夫」という選択肢がセットであってこそ活かされて行きます。「家族で在りたいかは自分の心にしか決められない」

 

だからこそ「家族」に依存しない在り方もあっていいと思う。

 

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